私たちは、農薬も肥料も使わずに作物を栽培します。有機農薬、有機肥料も使いません。(農薬と肥料に支えられた農業を慣行農業(栽培)といいますが、私たちの方法を自然栽培と言います。)その理由は以下の点にあります。

農薬は毒

農薬は毒です。「害虫」やカビなどを駆除し退治するために使われるのですが、「害虫」や害をなす微生物を殺すだけではないのです。「害虫」を食べる「益虫」をも駆除します。地上の小動物や鳥類、哺乳類にも害をなすのです。農薬の使用説明書には、扱う人間にも害になるので防護措置が記載されています。その害は扱う人たちばかりか、回りまわって世界中を汚染し、人類全体に影響を及ぼしているのです。北の果てに住むイヌイットの人たちも未だにDDTやダイオキシンから自由ではないことが分かっています。
農薬の害については、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(1962年)、有吉佐和子の『複合汚染』(1966年)、シーア・コルボーン、ダイアン・ダマノスキー・ジョン・ピーターソン・マイヤーズの『奪われし未来』(2001年日本語版)などで警鐘を鳴らされてきました。近年、アレルギー体質の子どもたちが増加、難病奇病が目立つようになってきました。農薬を筆頭とする合成化学物質が大量に使われるようになっていることと関係があるに違いありません。 恐ろしいことに、日本の単位面積当たりの農薬使用量は、中国や韓国と並んで世界のトップクラスです。「害虫」や病気が発生しなくても、「予防」するためとしてあらかじめ撒いてしまうからです。農薬を散布することを「消毒する」と言い、農作業のスケジュールに組み込むようになったのは、いつからでしょうか。毒を消しているのではなく、毒をまき散らしているのに、どうして「消毒」なのでしょうか。
政府も農薬の問題に対応せざるを得なくなっています。農薬の使用量を減らすことを奨励するような政策を出してきているのです。ガイドラインを作り、「有機農産物」を認める法律(JAS法)を制定、さらに農薬を減らして栽培された農産物を「特別栽培農産物」という表示ができるようにしたりと、「改革」を方向づけています。いつまでも農薬に頼った農業を続けることができなくなっていると言えるでしょう。

農薬は必要悪

農薬は「必要悪」と考えられています。必要だから害が出ても使うしかない、それで止められないのです。なぜ必要になるのか、それが問題です。まずは、病気や害虫から作物を守る。商品としての規格品を効率よく大量に生産し、見栄え良く仕上げるためと言えるでしょう。病気や虫食いの痕が残れば売場では買ってもらえません。そのような不良品を徹底的に減らすために農薬を散布するのです。それは「害虫」や病気への対症療法なのですが、予防として使うので量が増えるのも当然です。
問題なのは、対症療法であるということです。なぜ「害虫」が発生するのか、そこを追究すべきです。その原因はまず、生態系の多様性を壊して1種類の作物で広大な地面を占拠してしまうことにあると考えられています。そのアンバランスが不自然なので、元に復旧させようと自然が働くというのです。地球上は夥しい種類の生命体で満たされ、それらが互いに生かし合いまた殺しあって(食物連鎖)バランスを維持しています。天災などでこのバランスが壊されても、例えば植生に被害が生じても、しばらくすると元に戻ります。自然は自己回復能力を備えているのです。人間の営む農業も、自然のバランスに沿っている分にはその恵みに与ることができるのですが、逆にバランスを崩す方向に進むとしっぺ返しを食うことになります。夥しい虫が発生して作物に襲い掛かるのも、この一例と考えられます。

肥料が虫を呼ぶ

また、肥料の使い過ぎも虫や病気を呼ぶことになるのです。本来、植物(作物)の成長や繁殖に、肥料は必要ありません。当たり前のことですが、人間の手が入っていない森林や草原の植物は肥料も農薬もなしに生きているのです。それは、植物の生長に必要な要素を自然がバランスよく整えているからに他なりません。
こに、特定の植物(作物)だけに肥料が施されたらどうなるか。肥料によって作物は大きくはなりますが、体質的には虚弱になってしまいます。肥大化するという言葉のとおりです。そして、余った肥料分が残ります。虚弱な生物は淘汰の対象となり、不自然な肥料分は虫のエサにもなります。そこを狙って虫や病気が襲い掛かってくるのです。虫や病気は過剰な肥料が原因で、それに対処するために大量の農薬が必要になるという悪循環が続くのです。自然のバランスが保持されている限り、植物が虫や病気によって害を被ることは殆どありません。肥料の成分は、元々植物の生育に作用するものですが、それは微量でよいのです。また、微妙に作用するのです。肥料は作物のエサではありません。人間でいえば、ビタミンやミネラルを摂取するようなもの、最近はやりのサプリメントのようなものです。あるいは、甘いお菓子のようなもの。作物にとって必須のものではないのです。
作物を不自然に肥大化させるために使われる肥料は、環境にも悪影響をもたらします。河川や海の富栄養化です。肥料の窒素化合物やリンなどが過剰に溢れ出して河川に赤潮や青潮現象を引き起こし、公害問題に発展しているのです。

肥料は土にもマイナス

加えて、肥料は植物を育む土にとってもマイナスの影響を及ぼします。土の科学的性質(酸性、アルカリ性など)、物理的性質(排水性、保水性、団粒構造か否かなど)、そして生物学的性質(微生物や菌類など生態系の多様性や数など)は作物の成長に大きな要因となります。気候が良く土が良ければ、それだけで作物は元気に育つ、虫知らず病気知らずに育つと言われている所以です。この土壌にも自然のバランスがあります。食物連鎖がバランスよく働くことで植物にとっても格好の成長場所になるのです。が、肥料はこのバランスを崩してしまいます。生物学的にも物理学的にも化学的にも不都合が生じるのです。

必須なのは光合成

植物の生育にとって必須のもの、それは光(のエネルギー)であり、水であり、二酸化炭素なのです。肥料を施さずとも植物は成長すると言いましたが、光が当たらなくなるとまったく成長しません。水がないと枯れてしまいます。二酸化炭素が欠乏すると生きてはいけません。それは、植物が水と二酸化炭素を原料とし、光のエネルギーを使って自分が必要とする栄養を自分で作り出して生きているからなのです。動物はそれができないので、他の生物を食べて自分の栄養にしなければならないのですが、植物は他から栄養をもらう必要がない。動物と植物の根本的な違いです。動物が他の生物を食べて生きていくのと同じように、植物が肥料を食べて生きているのではないのです。
これは、小中学校の理科の時間に習うことですが、覚えていませんか。
6CO2 + 6H2O → C6H12O6 + 6O2 という光合成の化学反応式を。
そして、植物の葉が緑色なのは光合成をする葉緑体という物質の色だということを。地球上にある気体の酸素はこの光合成によって生み出された贈り物だということを。
もし、人間が光合成を科学的に解明して植物なしの光合成工場ができたら大変です。もう農業は不要になることでしょう。その工場は水と二酸化炭素から光のエネルギーを使って栄養分を生産してしまうからです。でも、光合成については分からないことだらけ、人間の科学技術はそこまで進歩していません。

農薬も肥料もなしで育つのか

農薬も肥料も使わずに、一体、作物は育つのか?答えはYESです。この点については誰もが異存のないところです。庭の柿の木は農薬肥料要らず、毎年実をつけます。山の植生も農薬や肥料を要求しません。それでも立派に生きていることで明らかです。
では、慣行農業と同等の品質と収量が確保できるのか?実はこれが問題です。肥料、農薬は人間が農耕を始めた時からあったわけではありません。第二次世界大戦後、『緑の革命』と言われている農業の大イノベーションがありました。化学肥料の大量生産が可能となり、病原菌や害虫、雑草を防除する農薬が開発されたのです。さらに作物の品種改良、灌漑設備などで農地が整備されました。今日、慣行栽培と呼ばれる栽培技術が出来上がったのです。これらの革新的技術開発によって、作物の収量が飛躍的に増加したのです。農耕を始めた頃と比較すると、5倍以上の収穫が可能となりました。この『緑の革命』は世界的に広がり、先進国はもとより中国やブラジルなどの新興国においても人口の増加や経済発展の基盤となったのです。人類の繁栄に歴史的な貢献を果たしました。
さて、こうして完成された慣行農業と収穫量を比較すると、その水準に到達している栽培者が存在する一方で、到達できずに無農薬無肥料栽培を断念する人もいます。どうしてかと言うと、慣行農業の栽培方法はマニュアル化されています。どんな農薬をいつ散布するか、その回数に始まって事細かに決められ、お上の指導員まで付いています。誰がどこでやっても、同じように収穫できるのです。それに対して無農薬無肥料栽培の技術はマニュアル化できません。それぞれの栽培者の経験や知見によって結果に差が出てしまうからです。

慣行農業の逆を行く自然栽培

農業とは、太陽のエネルギーを人間の活力源である食物に変換することです。自然の中で作物や家畜を育てて食糧を生産するのですが、同時にその前に立ちはだかってくるように見えるのが自然です。放っておけば田畑には雑草が生い茂り、害虫が作物を食い荒らし、病気も襲いかかってきます。慣行農業にとって自然は脅威であり、作物にとって自然は味方ではなく敵です。邪魔をしてくる自然の脅威を排除し束縛から自由になる方法を研究開発してきたわけです。
農薬を使って作物以外の植物を排除し、微生物や菌類を一掃し、昆虫などの小動物を追い出してしまいます。広大な面積の生態系を一変させた上で肥料を施して管理する。まるで、工場で工業製品を大量生産するシステムを農地に持ち込んでいるようです。近年、ビニールハウスの中で水耕栽培するコンピューター管理の作物工場が登場してきました。それは作物の栽培を自然から切り離してしまった慣行農業の行き着くところ、その究極の姿です。 人類の繁栄の基盤となった『緑の革命』、慣行農業ですが、同時に不可避の致命的な欠陥をはらんでいます。人間社会や自然環境に悪影響を及ぼすばかりか、莫大な化石燃料(石油)を消費しないでは成り立ちません。未来に向けて持続可能ではないのです。いつか立ち行かなくなるのです。

農薬も肥料も使わない自然栽培は、慣行農業とは発想や方向性が全く違うところから出発しています。生物の多様性と調和を尊重し、作物以外の植物と共存、微生物や菌類と共生、昆虫などの小動物を追い払いません。だから、作物以外を排除するための農薬はいらないし、微生物や菌類の活性化で土が豊になり肥料も不要なのです。要するに、農業を自然から隔離するのではなく、自然の生態系に組み込まれたまま、その一環として作物を栽培するのです。自然の中へ種を蒔き、後は放置して収穫以外は何もしないというやり方もありますが、最低限の手助けはします。
その土地の土壌や気象条件に合った作物(在来の種)を選び、種まきから収穫、種取りに至るまでの最適な時期を選んで栽培するのです。何百何千もの種類の生物がそれぞれ夥しい数で共生しています。その互いに競争しあい助け合う活力に助けられて作物も成長します。草取りも、幼い作物に陽光を確保するために、光を覆い隠している部分を刈るのみ。「雑草」を根絶してしまうのは逆効果です。「雑草」は畑の土を柔らかく耕して団粒構造を作ってくれるし、微生物がたくさん住み着いて格好の生態系を維持してくれるからです。
「雑草」や小動物、微生物が畑の土を耕してくれるので、頻繁な耕起の必要もありません。機械で田畑を耕起すると畑の生態系は破壊され、しかも耕起だけでは土壌の保水性や排水性を適度に保つ団粒構造もできません。それらを最適化してくれるのが自然の力なのですから。

また、慣行農業は生産コストが高いために、価格競争で外国から輸入されてくる農産物に全く歯が立たず、効率のよくない農地は放棄され、生活を支えることすらできず未来のない農業に後継者はいなくなります。農業のコストを考えると、自然栽培は実にローコスト。農薬代、肥料代、農薬散布や施肥、耕起、草刈りの手間、農業機械購入費用とその維持費、燃料代とことごとく費用が節約されるのです。そればかりではありません。石油を燃やして出す温暖化ガスに始まり、農薬や肥料が環境に与える汚染、国土の荒廃がないのですから、人類にとって最大の負担が軽減されるのです。自然栽培は『緑の革命』に不可避のコストを一挙に節減してしまいます。

自然な作物の決定的利点

農薬も肥料も使わない自然栽培によって作られた米、野菜、果樹の決定的な特長は、食べて安全だという点にあります。表面をピカピカにするワックスなし、残留農薬なし、肥料やりすぎの残留チッソなし、成長ホルモンによる太りすぎなし、実に健康的です。味も野性的で作物本来の味です。それを美味しく感じるかどうかは個人の好みにもよりますが、たいていの人は「美味しい」と目を丸くします。普段は普通(慣行農業)のものに慣れている舌がビックリするようです。
工業製品のような農産物や化学合成品が氾濫するようになって久しいのですが、急速な経済の発展の陰で、公害という環境汚染が進行し、人間にも汚染が侵入。様々なアレルギーや難病奇病が流行するようになりました。現代医学はその対症療法に追われるばかりで、その原因を追究し問題視するのはごく少数の人たちです。複雑多岐にわたる症状の原因を科学的に証明するのは極めて困難です。「複合汚染」なのですから、人類が滅びてもその科学的究明が完成することはないでしょう。発症するまでに何年もの潜伏期間がある場合はなおさらです。「科学的証明」を待つ前に、予防原則で対処しなければ人類に明日はないのです。
» 「予防原則とは?」はこちら
「食べ物を化学物質無添加の食品と無農薬農産物に切り替えてからアレルギーが治った」「無農薬野菜の菜食にして難病が完治した」などという人の経験談が次々と語られるようになりました。みな、石油を原料とする化学合成物質がなかった時代、『緑の革命』以前の時代にはなかった病状ですから、生活や食物をそれ以前に戻してやれば健康を取り戻すことができるわけです。文字どおり『医食同源』、食べ物が身体の素であり体質を左右するのです。驚くべきは、人間の回復力です。免疫の力によって奇跡の修復を成し遂げる場合があるのですから。
また、自然栽培の農産物は腐敗しにくいのです。慣行栽培のものと比較すると、違いが良くわかります。慣行栽培の野菜は放っておくと腐敗して不快な臭いを発します。それに対して自然栽培の野菜は、野山の落ち葉のように枯れていくのです。

若者がやってくる

農薬、肥料を使わない自然栽培にも、問題があります。大きさや形の整っている慣行の農産物と比べると、見栄えがしないのも事実ですが、この点は見方によります。自然のものを、薬を使ってより肥大化させ見栄えを整えて商品性を高めたのが慣行の農産物です。自然栽培のものは、本来の価値ではなく商品として見ると、見劣りするのは仕方がありません。
先に、収量が慣行農業レベルと同等の場合もありますが、そこまで達しない例も少なからずあると書きました。自然栽培の技術がまだまだ発展途上の技術だということではないでしょうか。今後の技術改良で収量の増加は可能です。そうなれば、慣行農業に従事している農家は、自然栽培に切り替えていくでしょう。
慣行農業の技術は国を挙げての政策として発展してきたもの。対して自然栽培の技術は在野のもの。国や自治体、農協や学会からのサポートは皆無、むしろ異端視されているのが現状です。それにもかかわらず、民間の農業者一人ひとりが、あるいはグループで自発的に生み出し作り上げてきたのですから、素晴らしい魅力に満ち溢れています。慣行農業は人口の超高齢化が進み、後継者不足という致命的な問題を孕んでいますが、自然栽培の分野には、若者が参入してきています。若者らしく自ら積極的に自然の生態系を学び、創意工夫を活かして意欲的な試みを始めているのです。農作業も楽しそうです。
日本の農業に明日があるとすれば、そこから出発するに違いありません。